
孤独を感じるのは、誰もいない、何もない、真っ暗なところよりも、たくさんの人がいる場所の事が多いのではないかと思います。
とても、たのしそうな人達の環に入れなかったり、話の内容がさっぱりわからなかったりすると、そんな事を感じる事があります。
ここは自分のいる場所じゃない。
街行く人々の中、みんなしあわせそうに見えたり、目的があって一心に進んでいるように見える事があります。
そんな時自分は、どうして自分だけそうじゃないんだろう。
なぜ、自分は仲間外れなんだろう。
音や光に満ちた賑やかな場所であるほど、その中心から切り離された「静寂の壁」が厚く感じられる。
笑い声や共有された空気感が、かえって自分の輪郭を透明にしていくような…そんなアウェーな空間でこそ、強い孤独の影が差す。
温度のある他者の輪の外側で、自分だけがガラスケースの向こう側にいるような冷たさを覚えてしまう。
大切な人に突き放されれば、その時もまた立ちすくんでしまいます。
そんな時、幼い子供は大声で泣く事ができても、大人はそこから一歩も進めなくなってしまう事もあります。
ひとりぼっちになっちゃった。
大人も、子供も同じです。
目的を持って流れていく街の潮流の中で、自分だけが錨(いかり)を下ろしたまま取り残されているような錯覚にとらわれる。
すれ違う人々の足取りが確かなものに見えるほど、「自分には帰るべき場所や、向かうべき未来があるのだろうか」という不安が足元から忍び寄る。
子供であれば声を上げて泣きじゃくることで手放せる感情も、大人は形のない鎧のようにまとったまま、ただ呼吸をすることしかできなくなる。
「ひとりぼっちになってしまった」という幼児のような怯えを、大人は無言のまま飲み込み、日常という仮面の下で凍りつかせる。
誰もが抱える「個」という存在そのものが、逃れられない原罪のように孤独を孕んでいる。
「どうせ自分なんて」という自己否定は、凍てついた孤独の底から響く、救いを求める小さな叫びなのだ。
孤独は全ての人間の、一番の原罪です。
その孤独からくる絶望が、どうせ自分なんてと自暴自棄にさせます。
どうせ自分は誰からも愛されない。
この絶望は深く、哀しく、心を壊してしまいます。
不完全なのに、孤独を感じなくなる事があります。
ケガや病の苦しみにある時、誰かがそばにいてくれるだけで、その苦しみに立ち向かう勇気が湧いてくることがあります。
その人が痛みを消してくれるわけでもなく、病を治してくれるわけでもない。
でも、その誰かがいる事で、ひとりじゃないと思う事で、病の苦しみが和らぐ事があります。
孤独でない事は、こんなにも人を強くするのだと思います。
「辛くない?」
「ひとりじゃないから」
孤独、ひとりぼっちだと思っていたその時に、代わってもあげられない、治してもあげられないけれど、あなたの助けになりたい。
そう思ってくれる人がいるだけで、ひとりぼっちの気持ちは薄れます。
人間の原罪である孤独が和らいだその時、呼吸をし生き続ける事が出来ます。
そして孤独を、ひとりぼっちを知る人は、同じ苦しみや哀しみの人に、とてもやさしいです。
町田そのこさんの「52ヘルツのクジラたち」に、こんな言葉があります。
この子からは、自分と同じ匂いがする。親から愛情を注がれていない、孤独の匂い。この匂いが、彼から言葉を奪っているのではないかと思う。
この匂いはとても厄介だ。どれだけ丁寧に洗っても、消えない。孤独の匂いは肌でも肉でもなく、心に沁みつくものなのだ。この匂いを消せたと言うひとがいたら、その人は豊かになったのだと思う。海にインクを垂らせば薄まって見えなくなってしまうように、心の中にある水が広く豊かに、海のようになれば、滲みついた孤独は薄まって匂わなくなる。そんなひとはとてもしあわせだと思う。だけど、いつまでも鼻腔をくすぐる匂いに倦みながら、濁った水を抱えて生きているひともいる。わたしのように。52ヘルツのクジラたち / 町田そのこ
人の哀しみを知り、その哀しみを自分の力に変え、同じ哀しみに苦しむ人の力になる。
そういう人が、やさしくて、本当に強い人だと思います。
今の哀しみや苦しみを、魔法をかけるように解消する事は出来ないけれど。
ひとりではない事が、絶望の淵に落ちて身動きがとれなくなる事のない、安全なロープです。
この「52ヘルツのクジラたち」には、次のような言葉もありました。
ひとというのは最初こそ貰う側やけんど、いずれは与える側にならないかん。いつまでも、貰ってばかりじゃいかんのよ。親になれば、尚のこと。
52ヘルツのクジラたち / 町田そのこ
強いからこそ、やさしい。
やさしいから、強い。
ひとりで生きて行けない世界で、いつ自分が孤独の淵に囚われるかもしれない。
その孤独の淵で、孤独と絶望にさす、光に救われたなら、次は自分が光になれるだろうかと考える。
同じ哀しみや孤独に苦しむ人に、諭すのではなく、説教するのではなく、寄り添う力を。
大人になるとは、強くやさしくなる事と考える日々です。